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西村賢太『二度はゆけぬ町の地図』書評(本の旅人)
二〇〇六年度の民間給与実態統計調査によると、年収二百万円以下の給与所得者が二十一年ぶりに一千万人を超えたそうで、格差社会に拍車とかいろいろ言われてますが、まあね、べつに貧乏だったいいじゃん。二十一年前と違って、今は百円ショップや百円コンビニでたいていのものが揃うし、百円マックもある。ハンバーガーも食べられる。ま、ネットカフェ暮らしは大変そうだから、住むとこだけは確保しておいたほうがいいけど……というこの時代にぴったりの小説が、本書『二度はゆけぬ町の地図』。
著者の西村賢太は、〇五年下半期の芥川賞候補になって注目を集めた貧乏文学の星。候補作「どうで死ぬ身の一踊り」を読んだとき、「この人は、純文学界の業田良家になれるかもしれない」『自虐の詩』が好きな人なら絶対ハマる」と言ったんですが(『文学賞メッタ斬り!リターンズ』所収)、その『自虐の詩』は、この秋、中谷美紀・阿部寛主演(堤幸彦監督)で映画化。当然、西村賢太にも時代の追い風が吹いているはずである。
既刊の二冊、『どうで死ぬ身のひと踊り』(講談社)、『暗渠の宿』(新潮社)は、ともに著者の分身とおぼしき藤澤清造おたくの“私”を主人公とする私小説集(通称、藤澤清造シリーズ)。藤澤清造というのは、貧乏暮らしの末に芝公園で凍死した大正期の作家で、あたかもその霊が乗り移ったかのごとき時代錯誤の文体で時代錯誤の無頼派的日常を綴る反時代性が大向こうに受け、西村賢太は一部で絶賛を博すことになった。
三冊目の作品集となる『二度はゆけぬ町の地図』は、中学卒業後に家を飛び出し、一人暮らしを始めてからの日々を回顧する、いわば“青春立志編”にあたる。収録の四編のうち、同人誌初出の留置所小説「春は青い馬車に乗って」を除く三編は〈野性時代〉掲載。
「貧窶の沼」と「潰走」は、私小説じゃなくて、“貫多”という名前の若者を主人公にした三人称小説の体裁をとっているが、『暗渠の宿』表題作の〈十六歳時に最初に独り暮しを始めた際に、結句四箇月滞納した室料の棒引きと相殺みたいなかたちで追い出された記憶のある、鶯谷の三畳間〉とか、既刊の本で読んだネタがこちらにもそのまま出てくるので、ダイレクトにつながっていると思ってよさそうだ。
実際、本書巻末の「腋臭風呂」は、“私”の十八歳の頃の話ではじまったかと思うと、途中でいきなり“それから二十年余りを経た現在”に飛び、そのまま藤澤清造シリーズに雪崩れ込む。プルーストの『失われたときを求めて』のマドレーヌのように、デリヘル嬢の腋臭が回想を誘発する文学装置になるという趣向で、いかにも西村賢太らしい。
青春編の時代背景は、たぶん八〇年代半ば。その日暮らしなので日払いの仕事で暮らす貫多のささやかな夢は、月払いのまともな職に就くことだが、結局きょうも稼いだカネを歌舞伎町の覗き部屋やファッションマッサージで使い果たしてしまう(十七歳なのに)。時代が変わり、年齢が変わっても、主人公の人間的なダメっぷりは全然変わらず、つねに貧乏と風俗がついてまわる。貫多は、“この先の悲惨な末路の自覚に、チリ気立つ恐怖を感じ”て、若さに唯一の救いを見るのだが、人間、なかなか変われるものではない。けだし、三つ子の魂百までと言うべきか。
短編集のタイトルどおり、この本の中心になるのは、バイト先の店主と大喧嘩をするとか、家賃を踏み倒すとか、どうしようもないトラブルを引き起こし、逃げるようにしてその町をあとにするエピソード群。
「暗渠の宿」で、現在の“私”が引っ越し先を探すとき、ここには近寄りたくもないと述懐する町がやたら多いのは、なるほどこういうわけだったかと了解される仕組みである。
読みどころは、主人公の前に立ちはだかる家主や雇い主との対決。「潰走」では、家賃を溜めるだけ溜めた挙げ句、二月上旬の明け方、大家の夫婦に急襲される。
……老家主の方は、本来カリカリに痩せてる体が、むしろ肥満して見えるまでに厚手のものを着込み、手には軍手、顔には風邪用の白マスクなぞをつけ、さらには頭に正ちゃん帽まで被って防寒をしているから、まるで平然たるもの。見るとそのうしろには、何んのつもりで連れてきたのか、これも完全防寒の厚着を重ねた小柄な老妻が、くたびれた茶色のマフラーを、ヘンな、真知子巻きみたいなかたちに頭から顎にかけてぐるぐる巻きつけ、敵を見る目で貫多のことを睨みつけている。
こうした“敵”たちとのせこくて情けない攻防戦が実におもしろい。笑える貧乏話を満載した西村賢太の切実すぎる貧乏文学で、年収二百万円時代をのんびり生き抜きたい。